PROFILE


 


名前: 伊藤 巴(いとう・ともえ)

屋号:巴李古(ぱりこ。)

肩書:漫画家×カウンセラー

好き:猫/ヒゲ/眼鏡orサングラス/食べること/旅


1983年島根県松江市生まれ、雲南市在住。
ビジネス系専門学校卒(産能短期大学卒業資格取得)。
日本能力開発推進協会認定メンタル心理カウンセラー資格・上級心理カウンセラー資格取得。

幼少期から絵が好きで、小学生の頃から4コマ漫画を描き始める。
小学5年生から約24年間、「境界性パーソナリティ障害」という精神障害を患っていた
(※心理学を独学で勉強し、通院・投薬は行わず33歳で克服)

2009年春、東京に住んでいた父親の病気をきっかけに、当時勤めていた天然石アクセサリー会社を退職。
同年12月22日、手作りアクセサリーをメインにしたオンラインショップを開店。
(当時、イラスト雑貨はおまけ程度のつもりだった)

2011年に商業イラストの依頼を受け、フリーランス・イラストレーターとして活動開始。
2015年4月〜翌年10月まで飲食店「めしや巴李古(ぱりこ)」を経営。

2017年よりWebライターとしての活動もスタート。漫画のシナリオライターも手がける。
同時期に全国対応のイラスト制作会社にて、在宅業務と海外出張(タイ)を経験。

2018年10月にイラスト制作会社との契約を終了し、
同年12月より心理カウンセラーとしての活動をスタート。
2020年から肩書きを「漫画家カウンセラー」へ変更し、業務では主に広告漫画を制作。
創作漫画の自主連載も始める。

2021年8月、初の書籍「疲れたら休めばいい、ということが何故こんなにもヘタクソなのだろう。」(株式会社Gakken/旧学研プラス)が発売される。

今後も、イラスト、漫画、文章を表現ツールとして、島根県から世界に向けて発信していく。


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【顧問弁護士】
法律事務所アルシエン
弁護士 河野 冬樹 氏

【プロフィール写真撮影】
いしとびさおり(Tsubaki_Rokka)さん

町野健写真事務所・町野健 さん

■小学生で自傷行為が始まり、クリニックを転々とする

Q:幼少期はどのようなお子さんだったのでしょうか。

島根県松江市で生まれ、1歳まで東京で暮らしました。その後両親が離婚し、母に連れられて島根の祖父母の家に移りました。最初は祖父母と曽祖母、叔父、私たち母娘の6人でしたが、そのうち叔父が結婚し、叔父夫妻の子ども達も含む8人が同居するという大家族になりました。

幼少期の私は活発で、鉄棒遊びが大好き。電話の受話器を握って、空想の相手に向かってずっとおしゃべりをしているような女の子でした。私の母は「若くて美人なお母さん」と評判でしたが、かなりの破天荒で、私が小1のときに恋人を作って出て行ってしまいました。たまに家に顔を出すものの、私の生存確認をしたらまた恋人の元に戻ってしまうような生活。

一方、曽祖母は私に対してとても厳しく、靴のそろえ方からご飯粒の食べ残しまで、すべてを監視して、私は叱られてばかりでした。私は物心がつく前からイラストを描くのが大好きで、暇さえあれば絵を描いていたのですが、それも曽祖母は気に入らなかったようです。

母親の愛情を受けられない寂しさや、曽祖母に否定されてばかりの日々のストレスで、私の心は徐々に蝕まれていったのでしょうか。保育園に通う頃には、感情を抑えきれず癇癪を起こすようになり、小5からは隠れて自傷行為を始めるようになりました。

中学でも同級生や曽祖母、母のちょっとした発言に突然怒りが爆発して問題行動を起こすなど、明らかに異常な状態でした。とうとう祖父母の家で暮らすことが耐えられなくなり、母に泣きついて祖父母の家から出て、母と叔母と3人で暮らすようになったのが中2のときです。

Q:ひいおばあさんの元を離れて、巴さんの状況は改善したのでしょうか。

曽祖母から離れても、私の心が落ち着いたわけではなく、成績優秀で入学した高校は遅刻ばかりで、登校しても保健室で過ごすことが多くなり、成績も急降下。さらに、授業中でも構わず自傷行為をするようになり、3階の教室にいると「飛び降りて死にたい」という衝動に駆られるようになりました。家では市販薬の過剰摂取(オーバードーズ)も始まり、むしろ症状は悪化していったのです。

それでも漫画家になることを夢見て、毎日描いてはいたものの、他校の同い年の友達が先にデビューしたことがきっかけで、「こんな自分にはムリだ」と、さらに生きることに無気力になった気がします。
高2のときには、感情を抑えきれず部室の窓を素手で割るという派手なことをして、母に心療内科に連れて行かれるようになりました。

クリニックには数件行き、うつ病の薬を処方されましたが、薬で症状が改善するわけでもなく、治る気はしませんでした。だんだん「効果もわからないし、親にお金を出してもらって続けるのは申し訳ない」という気持ちが強くなり、途中で行かなくなってしまいました。

その後20代になって、広告代理店でデザインの仕事をしたり、アクセサリーショップで店員をしたり、職を点々としながらも自分の収入ができたので、再度クリニックに行くようになりました。ただ、やはりどこに行っても「うつ病」と診断されて、薬を処方されるのは以前と同じでした。処方箋には「感情を抑える薬です」と書いてあっても効果は見られず、飲むと眠くなって仕事にも支障をきたすので、飲まなくなりました。

だんだん「性格だから仕方ない」と諦めも出てきて、「だったら、こんな私でも受け入れてくれる人を探そう」「受け入れてくれる人が見つからなければ、死ねばいい」と。そんなスタンスなので、恋人に感情をぶつけたり依存したり、不毛な恋愛を繰り返していました。

■自己治癒への決意と、克服までの道のり

Q:その状況から、どういう経緯で自力治療に向かったのでしょうか。

「もうダメかも」と思い始めた30歳のときに転機が訪れました。突然、17歳のときに受診したクリニックの先生に言われた「境界性パーソナリティ障害の疑いもある」という一言を思い出したのです。そこから境界性パーソナリティ障害について探求する日々が始まりました。

インターネットで検索して、医師の発信や、医療系の文献を手当たり次第に読みました。英語で書かれたイギリスのサイトを見つけて、知り合いの翻訳家に訳してもらったこともあります。

かなりの知識を蓄えた時点で、「私は境界性パーソナリティ障害か、双極性障害のどちらかに違いない」と思うようになりました。その仮説を確かめたくて、ノートに自分の症状やネットで得た情報をまとめて、17歳のときに出会ったクリニックの先生を訪ねました。

先生にノートの内容を話して、「私はどちらかだと思うのですが、プロから見てどう思われますか」とたずねたところ「よくここまで勉強しましたね」「境界性パーソナリティ障害で間違いない」と言われました。

当時、この障害に効く薬はなかっため「それなら、自己学習をしながら、自力治療をしたいのですが、どうでしょう?」と相談すると、「そこまで調べているなら大丈夫。何か困ったらおいで」とお墨つきをもらいました。私のさらなる探求と、自力治療への挑戦が始まったのです。

Q:自己学習と自力治療とは、具体的にどのようなことをしたのか教えてください。

自分で治すと決めてからは、心理学、哲学、自己啓発など心に関する本を片っ端から読んで、心理ワークも自分で実践しました。知識を得るだけではなく、本に「部屋の乱れは心の乱れ」と書いてあれば、苦手だった掃除や片付けにも取り組み、「体を動かした方がいい」と書いてあれば、筋トレや散歩をしたり。

また、当時悩んでいた恋愛・仕事・創作活動に関する本も読み漁るうちに、どの本も伝えているメッセージは、「とにかく動いた方が良い」「自分を大事にした方が良い」という2つに集約できると気づき、実践しました。

元来疑い深い私が、よく本の内容を鵜呑みにして素直に実践できたなと思うのですが、「なんとかして自分で治さないと、生きていけない」という極限の状態だったのだと思います。それまでは「いつか誰かが救ってくれるのではないか」という甘い気持ちもあったかもしれませんが、いよいよ「自分を助けられるのは、自分しかいない」と気づいたのですね。

そうして行動を起こしていくうちに、色んなことが見えてきました。たとえば掃除では、床の埃を取っても、実は目に見えないところにも埃は山ほど溜まっています。人生も同じで、目に見えない隠れた部分に課題や真実があるのではないかと気づきました。

そうすると「私は癇癪を起こして他人に迷惑をかける、自己中心的な人間だ」と思い込んでいたけれど、「実は他人を気遣いし過ぎて、そのストレスで病気になっているのではないか」とか、「私は曽祖母のことも母親のことも嫌いで怒っていたけれど、本当はみんなのことが大好きで、一緒に笑っていたいのに、それが叶わない悲しさが怒りになっていたのではないか」とか、自分に対する思い込みがはずれてきたのです。

さらに、周りの人のことも、「曽祖母は私が嫌いなのではなく、自由奔放すぎる自分の孫(私の母)に対する怒りや、理想の家族像を叶えられない自分自身の至らなさに怒っていたのではないか。その怒りが私に向かっていただけなのではないか」と思えるなど、絡まっていた糸が解けるように、自分の周りに起きていた現象が次々に読み解けていき、いつの間にか症状が緩和されてきました。怒りを爆発させる前に、自分の怒りの本当の原因を考えたり、相手の状況に思いを馳せたりする余裕が出てきたのです。

思い返せば、曽祖母が亡くなり、生前に小さなノートに書いていた日記が出てきたのですが、内容は毎日私のことばかり。「巴が夜遅くまで起きていた」など心配するような表現もあり、憎しみだけでなく愛があったのだと知りました。

とはいえ、当時の私は確かに傷つき、曽祖母を憎んでいたわけで、その私自身の気持ちも否定せずに大事にしていますが、自己学習の過程で自分や周りを多角的に捉えることができるようになりました。
こうして、私の境界性パーソナリティ障害は、33歳を境に症状が出なくなり、克服できたと考えています。

■かつての自分のような人をサポートしたい

Q:カウンセリング活動を始めたのは、やはりご自身の経験を活かしたいと考えたからでしょうか。

心の探求は好きですし、かつての私のように困っている人がいるのではないかと思い、2018年末から、精神的な悩みを持つクリエイターを中心にSNSでモニターを募集し、カウンセリングを始めました。半年後にカウンセラーの資格を取得し、本格的に活動を開始し、今ではクリエイターに関わらず多くの方に受けていただいています。

やはり私の発信を見てカウンセリングに申し込んでくださる人は、「診断は受けていないけれど、自分も境界性パーソナリティ障害ではないかと思う」という方が多いです。

Q:巴さんのカウンセリング手法について教えてください。

日本におけるカウンセリングは「来談者中心療法」が主流です。クライアントさんに自由に話していただき、カウンセラーはそれを傾聴しながら、共感・理解していくことで、相談者自身の気付きや成長を促すことを目指す手法です。

しかし、私自身がその手法を受けて改善しなかったので、事前に記入していただいたヒアリングシートをベースに質問して深掘りしていく手法を取っています。

私には、クライアントさんが無意識に回答した文章の中に、表現やテンポに違和感があると、それを感知することができる能力が備わっているようで、「なぜこう書いたのですか?」と深掘りすることで、問題の核心に迫れることが多いです。

私にとってカウンセリングは、クライアントさんを苦しめている問題の本質を探る謎解きのような感覚です。一度のカウンセリングで霧が晴れたように明るくなる方もいますし、「巴さんの言っていることは違うと思う」と納得してもらえないこともありますが、数年後に「あのとき、巴さんに言われたことが今になって腑に落ちました」と連絡をもらうこともあって、手応えを感じています。

また、私のカウンセリングの特徴の一つは、終了後にお渡しするフィードバックのPDF資料です。資料にはカウンセリングのまとめや重要事項に加え、クライアントさんの良い点等を記載しますが、資料作成を通じて私が気づきを得ることも多いです。パーソナリティ障害が出やすい人には、私と同様に「努力家」、「頑張り屋」、「愛情深い」といった特性を持つ方々が多いことも気づきの一つです。

PDF資料については、図解やイラストをつけてカラフルにしているのも特徴です。私はイラストレーターでもあるので、その強みを活かしているわけですが、自閉症スペクトラムやADHD傾向のクライアントさんの中には、文章で理解することが得意でない方も多く、「わかりやすい」と喜ばれています。

Q:まさに巴さんの強みが詰まったカウンセリングですね。巴さんが、カウンセリングにおいて大切にしているポリシーは何でしょうか。

一つ目は、「サポートはするけれど、邪魔をしない」ということです。私自身が苦しんでいたときも、周りの大人が「なんとか治してやろう」と一生懸命でしたが、周囲の気持ちや行動が、当事者の「自分を治そう」という気持ちを邪魔してしまうことがあります。ですから、私はあくまでも「邪魔をしないサポート役」に徹すると決めています。

二つ目は、「決めつけない」ということです。私は私なりにクライアントさんの症状やお話を分析して、「こうではないか」という意見を伝えますが、ご本人の感覚や気持ちを無視して決めつけることはしません。

ただ、「カウンセラーはエスパーではないので断言はできないけれど、可能性の一つとして頭の片隅に留めておいてほしい」と伝えるようにしています。前述のように、数年経って「巴さんに言われたときは受け入れられず、『そんなことはない』と否定したことが、後から考えると肝だった」と言われることも多いですから。

三つ目は、「遠慮せず、厳しいことでも率直に伝える」ということです。カウンセラーとして活動を始めた当初は、クライアントさんを気遣うあまり優しい言葉を使うこともありましたが、結局肝心なことが伝わりません。

率直な表現を使うことで、逆に「これまで腫れ物扱いをされてきたけれど、巴さんは厳しいことを言ってくれたので嬉しかった」と喜ばれることも多く、今では、厳しいこともはっきり伝えるが私のスタイルとなり、そこに優しさを感じると言ってもらえることもあります。

Q:心の問題を扱うカウンセリングでは、ゴールの定め方が難しいと思うのですが、巴さんは、カウンセリングのゴールや成功をどう定義されていますか。

「巴さんのおかげで克服できました」と言っていただくこともありますが、私はそれをカウンセリングの成功として設定してはいけないと自戒しています。

なぜなら、私自身もパートナーをはじめ多くの人の力を借りましたし感謝もしていますが、一方で「自分を大事にしよう」、「自分で治そう」と決意して、自分を大事にしたからこそ、自分を大事にしてくれる人たちに出会うことができ、自力治癒も達成できたと自負しています。

それが自信にもなっているので、クライアントさんには、「巴さんのサポートもあったけれど、治したのは自分だ」と思ってほしいですし、私から卒業した後は、自分で自分のことをなんとかできる基礎力をつけてほしいと願っています。そういう意味では、クライアントさんに「自分で治せるかも」という感覚を持ってもらえたら、成功だと言えるかもしれません。

■何歳からでも人は変われるし、挑戦して良い

Q:巴さんの将来のビジョンについて聞かせてください。

かつての私は、「イラストレーターや漫画家になるには、10代でデビューしないといけない」、「20代で子どもを産まないといけない」など、何ごとに対しても自分で自分を縛り、理想が叶わないと「私はどうせダメな人間だ」と自暴自棄になっていました。

クライアントさんを見ていても、日本社会全体を見ていても、「賞をとる」「有名になる」「稼ぐ」と言ったことに価値を置きすぎて、そうでなければ意味がないといった風潮があるように感じます。私も、漫画家への夢を持ちながら「もう今さら」という気持ちで10代、20代の時間を無駄にしてしまいました。

それでも、30歳から自力治癒に取り組んで障害を克服し、今はカウンセラーをしながら、好きなイラストや漫画を続けられていて、10代、20代の頃の自分よりも圧倒的に幸せです。

ですから、人生を諦めそうになっている人に、「何歳であっても好きなことに挑戦して良いし、結果が出なくてもやり続けて良い」、と感じてもらえるような、そういう生き方を見せられる人間になりたいと思っています。

Q:最後に、かつての巴さんのように苦しんでいる人、カウンセリングを受けるか迷っている人に向けて、メッセージをお願いします。

私はクライアントさんにカウンセリングをしながら、「10代の私に受けてもらいたかった」と本気で思っています。本当なら、タイムスリップしてあの頃の自分を何とかしてあげたいぐらい。そうしたら、人生で一番輝かしい時期を無駄にすることなく、イラストレーターや漫画家としての才能ももっと発揮できたのではないか。そんな思いがあります。

でも、過去に戻ることはできないので、せめてこれから未来を生きる人の力になりたいと思っています。私はパーソナリティ障害の克服までに随分遠回りをしましたが、かつての私のように苦しんでいる人がいれば、助けになれると思います。

若い人をサポートしたいという思いと同時に、何歳であっても、年齢を理由にして人生や夢を諦めてほしくないと思っています。人は何歳からでもやり直せると信じています。人生100年と言われる時代です。たとえ60歳であっても、自分の問題に向き合って克服することができれば、65歳は今よりずっと幸せになれますし、その後も人生は続きます。

もし、私の発信を読んで私のことが気になったら、きっと何か意味があるのだと思います。その直感を大事にして、ご連絡いただけると嬉しいです。心の病は、いつ取り組んでも手遅れではないことが救いですが、早ければ早いほど、残りの人生がより豊かになるのも事実です。諦めずに、自分の力を信じてみてください。


【プロフィール文章原案&インタビュー記事作成】
インタビュアライター なまず美紀さん


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